今回の表題を日本語にすると、教育と訓練となります。
元々の英語の時点では、この二つは厳密に区別されていました。
極端に言えば、教育とは、何もない頭に知識を入れる事、訓練とはその知識を実践で使えるようにすることです。
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日本の場合、教育と訓練はあまり区別されていなくて、義務教育等は、詰め込みでただの記憶です。何のために知識を得るのかは、あまり問題視されていません。
一方、企業での新人教育と言うのは、本来大学などで身に付けた知識を企業活動で使えるようにすることなので、訓練と言った方が近いのですが、ここでも区別はありません。
むしろ、起業価値観に合わせての洗脳のようなものと言えます。
今の学生事情は良く分かりませんが、私が学生の頃は、学費などをアルバイトで稼ぐのは当たり前で、実社会に出る前に所謂3Kの仕事を経験して、厳しさや痛みを実感する機会は多くありました。
もちろんそんな心配をせずに真面目に授業に出る方が当たり前なのかも知れませんし、それを否定もしません。
以前の投稿で、日本の明治期に触れましたが、そのころの人材は、例外なく貧しかったようです。その中で、親に迷惑をかけたくないから、無償の学校に行って教師になるとか、給金が支給される、陸海軍の士官学校に進み軍人になると言う人も多かったようです。
明治期の人材としては、軍人としての秋山好古、真之兄弟が良く上げられます。
好古は陸軍で騎兵と言う兵科を作り、日露戦争で、世界最強と言われたロシアのコサック騎兵を破り。真之は海軍参謀として、日本海海戦で全ての作戦を立案実行し、勝利に導きました。
後に二人は、教育にも携わり、教える中で絶えず実践を意識したようです。
知識を詰め込んでも、それを消化して、自分の考えを入れて自分のものとして、実践で使え値ければ意味が無い。
これを「活術」と称したそうです。
別の投稿でも触れましたが、「分かる」と「できる」には大きな差があります。
世に言う「評論家」は前者で、「実務家」が後者でしょう。
しかし、ここまで社会の分業が進むと、何から何まで全て自分でと言うのは無理があります。
ただ、専門性は維持しながら、出来る範囲の経験をしておくことが、訓練だったり、キャリアであると思います。
他にも、英語では明確に区別されていても、日本語になったとたんに曖昧になる言葉はあります。
管理と監督・戦略と戦術等がそうですが、機械があれば触れたいと思います。
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