今回からプロジェクト事例に戻り、島根富士通プロジェクトを三回に分けてご紹介します。
時期は、1992年~1993年にかけての新規工場及び新会社の立上げプロジェクトです。
このプロジェクトについては、当時の富士通広報を通じて、富士通の板倉稔様がプレスリリースを行っていますから、出来る限り事実に沿ってお伝えします。
1, 背景
当時の富士通は、関沢社長(故人)指揮の元、ハードウェアからサービスへの経営方針転
換の最中でした。
とは言え、富士通がコンピューターメーカーであることには今も変わりなく、当時も汎用
機・オフコン・パソコン・ワードプロセッサ等様々な製品を用意していました。
汎用機は、Mシリーズ・オフコンは、Kシリーズ・パソコンは、9450シリーズ・ワードプ
ロセッサはOASYSと言う独自路線で、それなりのシェアを確保していました。
特にパソコンは、先に紹介した日商岩井において、世界中に張り巡らせたテレックス
(6000台)を全 て9450にリプレースしたばかりでした。
そのタイミングで、富士通はパソコンとワードプロセッサの独自路線を捨てて、IBM互換 機(AT互換機)に置き換えると発表し、その生産を島根富士通で行うことになりまた。
2, システム開発の課題
当時の富士通は、以下の四つの社内システムを持っていました。
・販売管理システム(全社ペガサス)
・物流システム(全社トピックス)
・生産管理システム(工場独自)
・購買システム(全社NPS)
このうち、生産管理システムと購買システムを島根富士通に導入することが決まりました。
生産管理システムは、工場独自でしたから、割とは早くから計画され、開発が進んでいました。
ところが購買システムは、川崎工場で開発し各工場で運用する形態を取っていたので、今のシステムを島根に持って行けば良いと考えられており、開発計画はありませんでした。
持って行くときに、以下の問題が発覚しました。
・それまでの購買システムは汎用機やオフコンを前提に開発運用されていて、平均購買リ ードタイムは約二週間、サイクルは一日一回。
・それに対し、パソコンの生産ラインに必要な購買サイクル一日数回、リードタイムは数 日。
実際に、取扱説明書を入れるビニールの袋が無くて出荷が出来ない事もあったそうです。
そのような物であれば、安全在庫で対応できますが、モニターやマザーボード・本体カバーはそうは行きません。そこで、以下の開発方針が出されました。
・EDIの普及を100%に近づける。
・購買発注は日次ではなく、処理速度をオンライン並みにして、一日に何度も発注する。
・取引先とのリードタイムを見直す。
その時点で、生産管理システム完成まであと六ヶ月、一から開発している時間はありません。
当時購買システムの開発運用の責任者であった富士通の社内システム課長から相談を受け、課長とベテラン社員、私の三人プロジェクトが発足しました。
そのプロジェクトがどのような開発戦略を取り、社内外の協力体制を作っていったのかは、次回以降にご紹介します。
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