最近、3回連続してプロジェクト事例をご紹介しました。
今回はプロジェクトから少し離れて、華僑と言うテーマをご紹介します。
突然ですが、来月(2021年6月)横浜港は開港162周年を迎えます。
横浜港開港と同時に発足した、横浜中華街の歴史に触れながら華僑についてご紹介します。
華僑と言う言葉はお聞きになった方もいらっしゃると思いますが、彼らがどんな人々か
ご存知の方は少ないのではないでしょうか。
華僑とは、中国国籍のまま海外で働き暮らす人たちを指します。所謂移民ですね。
私の祖父母はブラジル移民でしたから何となくイメージは沸きます。
それに対して、華僑の子孫の様に日本で生まれて日本国籍を持つ人々の事を華人と言います。
では、中国に大勢いる人々は何と言うか?当たり前ですが彼らは我々日本人と同じく中国人と言います。
横浜開港と同時に、イギリスを中心に多くの外交人実業家が横浜にやってきました。
彼らはどこから来たのか?本国からではなく、お隣の当時の清国からです。
その時外国人と共にやってきたのが、彼らが清国で事業を遂行するのを助けた有能な中国の人々です。
日本に来た中国の人々は、清国で事業を遂行していましたから、中国語・英語に堪能です。
また、漢字を介して日本人とも会話ができたそうです。
言わば、中国でのエリート中のエリートです。
横浜に来た中国の人々は、今の横浜中華街の辺りに居留地を作り、それが現在の横浜中華街です。
中国から華僑として移民となり活動する人々は、世界中に存在します。
華僑は三つの刃物を使い、世界中で活躍しています。
その三つとは、洋品店の仕立挟み・床屋の理髪挟み・料理人の包丁です。
横浜中華街にも洋品店や床屋はありますが、圧倒的に料理人が多いです。
横浜に最初に渡ってきた華僑の人々は、それぞれに事業を展開し、子孫に伝えてきました。
何故162年前から始まってこんなに根付いてきたかは、いくつかの理由があります。
・先輩は、広東等出身地ごとに同郷組織を作り後輩を援助しながら受け入れてきた。
・先輩は、子孫(華人)の為に中国語や中国の歴史を教える学校を作った。
・先輩は、後輩や自分たちの心のよりどころとして寺院などを建設した。(関帝廟等)
誰が決めたわけでもなく、世界中でこれらを展開してきました。
ここで、横浜中華街の老舗、萬珍楼の社長である林兼正さんの、聞き書きをご紹介します。
出典は、小田豊二著「横浜中華街物語」です。(上記写真の左側の男性)
華僑として当時の清国から渡ってきたのは、彼のお父さんでした。苦労して店を始め大きくしてきましたが、途中に戦争と関東大震災があり、大変な苦労をされました。
余談ですが、現在、その息子さんである林兼正さんはコロナと戦っているわけです。
中華街の学校を、店を手伝いながら卒業して、インターナショナルスクールに進学します。
元々日本生まれで、日本語は母国語ですが、それに中国語と英語が加わったわけです。
横浜と言う土地柄、米軍とのかかわりも深く、音楽などを通じて色々な企画もこなしてきました。
一度萬珍楼以外の会社にも就職されたようですが、最終的に萬珍楼を継ぎました。
お父さん譲りの料理人としての腕も超一流です。
そこに、華僑の価値観や人脈、インターナショナルスクールで身に付けた合理性と英語です。
その辺の外資系企業の社長よりグローバル人材ですね。
林さんは横浜中華街は観光地ではなく生活の拠点であり、人材を輩出していく場所でもあると言われています。
私も個人的に台湾などの華僑の人々とお付き合いがありましたが、彼らにすんなり受け入れられたのは、横浜での経験や祖父母から受けついだ移民の血のようなものもあったのかも知れません。
今も既に華人になられた方も多いですが、中華街の色んなお店の横浜華僑の方々との関係性は続いており、これからも大切にしてゆきたいと思います。
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